ネジマキ論

2009年3月16日 (月)

花の写真論

蓮の花
Hana102

山茶花
Hana101
撮影:PENTAX K100D + PENTAX FA 35mm F2 AL

 
花の写真の難しいところは
誰でも比較的簡単にそこそこ綺麗な写真は撮れるのだが
どの人の作品も同じような写真になって
綺麗に撮れてはいるがそれ以上のものがない写真になりがちなこと。

で、何かが不足しているのを感じて色々工夫しだすと
これがまた落とし穴に嵌まります。
小手先のテクニックの問題じゃないんですよね。
なんというか、その前段階のセンスの問題なんですよね。
センスのある人は努力しなくてもうまく撮れるが
センスのない人は努力してもうまく撮れない。
それが分かるまでに10年かかります。^^;

私はというと既に上手く撮れないことを悟っているので
花の写真はあまり撮りません。^^;
たまに撮るときも
どう頑張っても実物の美しさには勝てないというところから出発して
せめて個性を出そうと、そっち方向で奮闘努力しています。^^;

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2009年2月27日 (金)

村上春樹が投げた卵

Death01
撮影:PENTAX K100D + PENTAX FA 35mm F2 AL

 
昨年、私の父は90才でなくなりました。
彼は元教師でたまにお坊さんとして働いていました。
彼は大学院にいた時、徴兵され中国に送られました。
戦後生まれの子供の私は、父が朝食前に長く深い祈りを
仏壇の前で捧げているのをよく目にしました。
ある時、私がどうしてお祈りをするのかたずねたところ、
父は戦争で死んだ人々のために祈っているのだと答えてくれました。
味方でも敵でも死んだ人たちすべてに祈りを捧げていると父は言いました。
仏壇の前で正座する彼の背中をながめていると、
父にまとわりつく死の影が感じられるような気がしました。

父は亡くなり彼の記憶も共に消え、それを私が知る事はありません。
しかし父にまとわりついていた死の存在感は
今も私の記憶に残っています。
それは私が父から引き継いだ数少ない事のひとつであり、
もっとも大切な事のひとつであります。

  *

エルサレム文学賞を受賞した村上春樹は
エルサレムで開かれた授賞式の記念講演で
高い壁とその壁にぶつかって壊れる卵の比喩を用いた
とても興味深いスピーチを行いました。

「常に卵の側に立つ」と題した英語のスピーチの中で
彼は唐突に父親の思い出を語り出しました。
上の文章がその訳文です。
彼は今まで父親の話をしたことが殆どないので
私はとても興味深くこの話を読みました。

彼はなぜ、このスピーチでこの話を必要とし、
この話によって何を伝えたかったのか?
私はそのことをずっと考えていました。

スピーチにある壁と卵の比喩のひとつの解釈として
イスラエルのガザ攻撃を批判しているのはその通りだろう。
でもそれだけではない。
もっと深いところにもっと重要な意味がある。
それは政治的あるいは道徳的立場からの批判ではなく、
文学的な立場からのメッセージなのだろう。
では、その文学的意味とは何か。

  *

いくつかの紆余曲折を経て
ひとまず次のような結論に辿り着きました。

西洋の宗教的メッセージに“メメントモリ”というのがあります。
「誰もがいずれは必ず死に至ることを常に忘れずに生きよ」
というような意味なのですが、村上春樹の父親の話も
これに近いのかなと思いました。

メメントモリは自分の死と自分の生の関係性であるのに対し、
村上春樹の話は他者の死と自分の生との関係性。
つまり、自分と特に関係のない他人の死であっても、
それは自分の“生”と決して無関係ではないのだということ。
戦場での兵士の死を引き継いだ父と、その父の死を引き継いだ自分。
そんな「個々人の物語の連鎖に思いを馳せよ」ということなのだろう。

父親が内包していた死の影。
それは村上春樹のデビュー作で提示されたメッセージである
「死は生の対極としてではなく、その一部として存在する」
にも繋がって行きます。

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2009年2月 5日 (木)

ガーリーフォト論

某掲示板に「ガーリーフォト」と題した写真を投稿したところ、
すこぶる評判が悪かったので、
今回はガーリーフォトなるものを考察してみようと思います。

ガーリーフォト(Girly Photo)とは
1990年代後半に流行した写真の一傾向であり
身近で日常的なものを被写体にした女の子写真。
技術的な部分は後回しで感覚を優先させた写真。


先ずは、代表格の三人の写真家の作品を見てみます。

HIROMIX
Hiromix2

Hiromix3


蜷川実花
Ninagawa1

Ninagawa2


長島有里枝
Nagashima1

Nagashima2


ぱっと見で、上手さは感じないのですが
何かしら人を惹きつけるものがあります。
それが何であるか、が今回のテーマです。

ガーリーフォトの特徴は
・見たものを鋭い視点や感性で表現
・瑞々しい感性とピチピチ感やヒリヒリ感
などが挙げられます。

批判的な感想は
・希薄な叙情、美しいだけの色、漂泊された広告写真
・自閉的で退屈な自己満足の世界
といった意見があります。


一方で、私の作品。
Girly21_2

Girly22

被写体の違いはひとまず置いといて、
根本的な感覚の差はそれほどないように見えます。
それでも、明らかな違いがあることも確かです。
それが何だろうと熟考した結果、たぶん
見た人への《刺激》だろうと思い至りました。

それは
見た人を突き刺す感覚の《鋭敏さ》とか
表現衝動の《ほとばしり》や《たぎり》
といった言葉で表されるもの。

思えば、歳をとるにつれて
額に脂をたぎらせることはあっても
感情や情熱をほとばしらせることは
だんだんなくなって行きますよね^^;

というわけで
リベンジにあたって考慮すべき点は
(1)興味の対象(被写体選び)
(2)衝動の《ほとばしり・たぎり》
の2点です。

これが今回の結論です。^^;

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2009年1月18日 (日)

自虐的人生論

Tabaco
撮影:PENTAX K100D + PENTAX FA 35mm F2 AL

数年前に読んだ業田良家の漫画「自虐の詩」。4コマ漫画の連作物語です。上下巻2冊あるのですが、上巻が手に入らず下巻だけを読みました。主人公・幸江は飲んだくれの父との二人暮らし。生活は極貧。幸江は小学生のときから新聞配達と造花作りの内職で生活費を稼いで食いつないでいる。根は優しいのだがドジで失敗ばかりしている幸江。友達もいない。同じ境遇の、粗雑だが逞しく生きる熊本さんだけが唯一の友達だ。物語はこの二人の貧しく自虐的な人生をコミカルに笑い飛ばして行きます。これが延々と続いた後、いよいよ最後のカタルシスへ。幸江は中学卒業後、故郷を離れ東京に向かう。そして20年後。極道者のイサオと一緒になり新しい命を宿したとき、幸江はまだ見ぬ母へ宛先のない手紙を書きます。「この人生を二度と幸や不幸で計りません。なんということでしょう。人生には意味があるだけです。ただ人生の厳粛な意味をかみしめていけばいい。勇気がわいてきます。おかあちゃん、いつか会いたい。そしておかあちゃん、いつもあなたをお慕い申しております。かしこ」。そして、追伸。「もうすぐ私にも赤ちゃんが生まれます」。ここでウルっときたが必死で堪えた。そして熊本さんとの再会シーンへ。ガシッと手を取り合う二人。ささやかな歓喜の中、物語は幕を閉じる。最後のナレーション《幸や不幸はもういい。どちらにも等しく意味がある。人生には明らかに意味がある》。これでもうダメ。溢れ出る涙。文だけで読めばなんてことのない言葉だけど、幸江の辛い人生を辿ってきた後に読むと、じーんとしみてきます。生きていてよかったね。辛かったこと。悲しかったこと。悔しかったこと。それらがまるで自分自身の思い出のように頭の中を駆け巡ります。傍目には不幸にしか見えない人生の意味を晴れ晴れと噛みしめている幸江の心情があまりにも神々しい。僕は想う。川の流れのように山に降った雨が海をめざして下ってゆくのが人生ならば、水溜りのようにいつの間にかできていつの間にか干上がっている、そんな人生があってもいいのだろう。

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2009年1月17日 (土)

夜想幸福論

Shinbashi11

♪時の流れと空の色に
何も望みはしないように
素顔で泣いて笑う君にエナジーを
燃やすだけなのです。

吾唯知足。吾、ただ足るを知る。
これは欲をだしてはいけないってことではないんだな。
何かを求めてひたすら努力する。
それはとても大切なことだ。
努力もしないで、何が足りないだとか誰が悪いだとか
いつも不満をブー垂れている人。
僕はそんな奴が大嫌いだ。でもね。
いずれはそうやって手に入れたものをすべて手放して
僕らは死んで行く。
それはどういうことなんだろうってこと。
失うことが宿命づけられたものを
ことさら追い求めることの意味、あるいは無意味。
求めずに諦めればいいのかな。いやちがうな。
追い求めてなお執着しない、ってことだろう。
追い求める姿と執着しない姿とが同時に存在している姿。
何かを得るということと
その何かを得られないということは
等価であるということ。
それが「足るを知る」ってことではないかと
僕は思うんだな。


撮影:PENTAX K100D + PENTAX FA 35mm F2 AL

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2009年1月16日 (金)

唯識的色即是空或者空即是色

Sanpo04

世界は実在しない。
私が実世界だと思っているものは
私の意識が創り出した仮想世界なのである。
この仮想世界こそが
私が実在する唯一の世界なのだ。
そして、私という存在も
私の意識が創り出した現象にすぎない。


撮影:PENTAX K100D + PENTAX FA 35mm F2 AL

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